コラム153 船乗りの心得

 幕末の海軍士官に小笠原賢蔵という人がいた。海事資料叢書第18巻の解題で住田正一
博士は「幕府軍艦咸臨が米国に渡航したときに、佐々倉桐太郎などと共に乗組んだ一人
である。」と書かれているが、何かの間違いで、文倉平次郎の「幕末軍艦咸臨丸」の
乗組員名簿に彼の名は見当たらない。
 同人が米国に渡航したのは、慶応3年正月23日太平洋郵船のコロラド号で軍艦受け
取りの交渉委員長であった小野友五郎に同行し軍艦受け取りとして操練所から派遣され
たときである。このとき、福沢諭吉は小野友五郎に頼んで二度目の渡航をしており、
「福翁自伝」に同行した小笠原賢蔵の話が出てくる。
 彼は朝陽艦に乗艦し小笠原島に航海したり、函館戦争の主役であった榎本武揚らに組
したが、宮古沖海戦で負傷して捕らえられ、高雄艦長であった古川節蔵と共に江戸送り
され、霞ヶ関にあった芸州屋敷に監禁されたが、その後許されている。
 維新後、小笠原の名は明治8年(1875年)の官員録に駅逓寮七等出仕として出て
いると住田博士は述べておられる。
 彼の出自は、「故郷盛岡の先輩小笠原賢蔵塾に入り初めて英語・数学を学んだ。」と
書かれている書物があるから、盛岡ではなかろうかと思うが確証はない。
 小笠原は明治13年(1880年)5月、環水堂から「船乗りの心得」を著した。
 内容は、訳本で訳者は小笠原賢蔵とあり、当時は東京築地に住まいしていたらしい。
 この本は、海事資料叢書18巻に収録されており、私は、若い頃に読んだ記憶がある。
 訳本であるから、種本があるはずで、それは欧米の航海書には違いないから、いずれ
探してやろうと思っていたが、いつの間にか、すっかり忘れてしまっていた。
 日本語で書かれた昔の航海、運用、航用測器関係の書物の殆どは欧米の書物を種本(時
には丸写し)にしているのであるが、訳書ではないことになっている。
 しかし本当は翻訳ものだから著者の独自性には程遠いものばかりで、その代表的な
ものの一つに天文航海学(酒井 進著、海文堂出版刊)がある。この本の種本はイギリ
スの<Admiralty Manual of Navigation>のはずだ。
 今年春のことであった。
 <Two Years before the Mast>を書いた<Richard Henry Dana,Jr.>の<The Seaman's
Friend> を2冊購入した。 内1冊を神戸商船大学名誉教授杉浦昭典先生に進呈したが、
杉浦先生からのお便りに「この本は、「船乗りの心得」の種本だと思う。」とあった。
 <Two Years before the Mast>は「セーラーとして。」の成語にもなった有名な書物
で、練習帆船の日本丸船長であった千葉宗雄氏が「帆船航海記」の題名で海文堂から訳
書を出されている。
 R.H Dana,Jr.は1815年の生まれでハーバード大学在学中に目が悪かったため生活
を変える必要を感じ、学業を中止して1834年8月、ボストンでブリック型帆船の貨
物船ビルグリム号に乗船し以降2年間の航海を経験した。もちろん平水夫としてである。
 この体験を基に書かれた記録は当時のアメリカ帆船の船内の実態を克明に示すものと
して貴重であるばかりでなく、帆船の運用実務の面からも専門書として評価され、イギ
リス海軍で教育にも使われた
アメリカ海洋文学の永遠の古典ともいわれている名著である。
 
 <Dana>は2年間の水夫生活の後、復学して法律を学び後に弁護士となった。
 この航海記<Two Years before the Mast>は1840年に初版がでたが、翌1841
年には前出のThe Seaman's Friend>を著した。
 この本は、わが国では航海記ほどには知られていないが、運用術の専門書であり、帆船
書の古典として、知る人ぞ知るものである。
 杉浦先生のご教示で両書を対比して読んでみた。
 例えば、<The Seaman's Friend>のPARTU CHAPER1 <THE MASTER>の項に、

 The master takes the bearing and distance of the last point of departure upon
 the land,and from that point the ship's reckoning begins,and is regularly kept
 in the log-book.
 The chief mate keeps the log-book,but the master examines and corrects the 
reckoning every day.
 The master also attends to the chronometer,and takes all the observations, 
with the assistance of his officers,if necessary.
 Every day, a few minute before noon,if there is any prospect of being able to 
get the sun,the master comes upon deck with his quadrant or sextant,and the 
chief mate also usually takes his.
 The second mate does not, except upon a Sunday,or when there is no work going 
forward.
 As soon as the sun crosses the meridian,eight bells are struck,and a new sea 
day begins.
 The reckoning is then corrected by the observation,under the master's super-
intendence.

 とある。これを、船乗りの心得では,

 船長は出帆の後、陸地を遠隔らざる前に岬角、燈台等の方位及び距離を測定めて航海
日誌に記入れ、此点より経緯度を起算すべし、但し航海日誌を記すは一等運転手の職掌
なれども、船長は毎日之を点検べて、推測を正さざるべからず。船長は時辰儀に注意け、
総て実測をなすに他人を要するときは、運転手に命けて助成をなさしめ、又毎日正午少
し前に至り、太陽の高度を測り得べしと推考ふるときは、自ら四分儀或いは六分儀を携
えて甲板上に登り、其子午線高度を測りて緯度を算定し、一等運転手にも亦之を測らし
むべし。然れども二等運転手には、日曜日か或いは作業のなき日に非らざれば、決て測
量をなさしむべからず。
 太陽の子午線に懸るや、直ちに正午時の鐘(数八)を打たしめ、之れよりして海上日
の初めとすべし。 実測に従て推測を改正すは、船長の自掌る所なるべし。

 現代人には誠にややこしい言葉使いだが、小笠原の記述は、以上のとおりであり、
「船乗りの心得」の種本は<The Seaman's Friend>であり、これを意訳したものに違い
なかろう。訳した部分はPartUであるが、小笠原は見張員を看守者と訳している。
 ドグワッチ<dog-Watches>は、2時間毎の半直のことで、午後4時から6時までの2
時間と午後6時から8時までの2時間当直のことであるが、彼は、午後4時から6時の
当直を第一黄昏当直、午後6時から8時の当直を第二黄昏当直と訳したり、”Ay,ay,sir"
を「諾一諾」と訳し、ルビして「あいあい」と記しているのは面白い。

 昔の商船学校の学生は<Two Years before the Mast>や<Joseph Conrad>の台風
<Tyhoon>を原書で読んだものだし、明治大正期には航海、運用術の教科書に原書を用
いたものだから英語に堪能な人が多かった。
 元来、船乗りは活字に親しむ機会が少ない。特に内航船の船員は書物をあまり読まな
いし、テレビのせいもあって、活字離れが進んでいる。搭載機器の取扱説明書すら満足
に読んだことのない船員が大多数である。
 本当に船乗りらしくあるためには、小笠原賢蔵の「船乗りの心得」に書かれているよ
うなことを身に付け実践することが先決だ。いきなりISMコードだ、BRMといった
ところで、その中味が理解できなくては、なんの役にもたたない。現在の再教育を含め
船員教育の場では、運用術の基礎教育がなおざりにされているように思えてならない。
 教育者側も本来技術者養成に専念すべきなのに、技術でなく学を授けようとやっきに
なっているから、合目的的な教育には程遠いのが実情で、話がややこしくなっている。
 先ず「隗<かい>より始めよ。」であろう。


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